人生って案外、ごはんでできてると思う。
朝、ちょっと気分が重いなと思った日も。
仕事でうまくいかなくて落ち込んだ夜も。
誰かと笑いながら過ごせた、あのかけがえのない時間も。
ふと振り返ってみると、その全部に“ごはん”があったなって思う。
パンの焼ける香りで目が覚めた朝。
コンビニのからあげ棒でちょっと元気を取り戻した夕方。
初めて自炊したカレーの味に、自分でも感動した大学時代。
一緒に食べた人の顔や、何を話したか、どんな空気だったか——
思い出の中心には、いつも何かを食べていた時間がある。
「食べることって、生きることそのものだな」って、
年齢を重ねるほどに感じるようになった。
豪華じゃなくてもいい。
高級じゃなくてもいい。
“そのときの自分を満たしてくれたごはん”こそ、人生をつくっている気がする✨
このブログでは、
そんな「食べること」が教えてくれた日々のことを、
ゆるやかに、でも少しだけ真剣に、書いていきたいと思います🍴
🥢記憶に残っている“あの味”たち
たとえば、「お母さんの味」って聞くと、何を思い出しますか?
私は、塩むすび🍙
特別な具もない、真っ白なおにぎり。
でも、お弁当箱を開けたときにふわっと香るあの海苔の香りと、
ちょっとだけ指に塩がついた母の手のぬくもりを思い出す。
そのおにぎりを頬張りながら、運動会で風に吹かれていた午後のグラウンドや、
「食べなさい!」と声をかけられて膝の上で食べたソファの感触すら、
今でも脳裏に浮かんできます。
あのときの味、あの瞬間。
味覚って、記憶と感情に直結しているんだなと思うんです。
🍳台所で聞いた音、たまごのにおい。
大学生のころ、はじめて実家を離れて一人暮らしを始めた日。
ワクワクとさみしさが混ざった夜、
スーパーで買った卵を焼いてみた。
スクランブルエッグ。
塩とコショウをふって、それだけ。
でもその香りが、びっくりするくらい懐かしくて、
“あ、うちの朝のにおいだ”って思った。
一瞬で心がほどけて、思わず泣いてしまったのを覚えています。
たぶん、「味」っていうのは、
舌だけじゃなく、心で感じるものなんだと思う。
🍲「おいしいね」があった食卓。
友人と行った台湾旅行、
小さな屋台で食べた魯肉飯。
現地の人が肩を並べて座っているなかで、
「おいしい…!」って言葉をほぼ同時に口にした瞬間、
ふたりで顔を見合わせて笑った。
あの「おいしいね」の一言に、
言葉以上の気持ちがぎゅっと込められていた。
“一緒においしさを共有する”って、こんなにも心を近づけるんだと感じた旅の思い出。
こんなふうに、
頭で覚えているというより、
心とからだに残っている“味の記憶”って、
思いがけないタイミングで顔を出します。
それはたぶん、
自分にとって何よりも大切だった瞬間と、
そっと結びついているから。
🌙ひとりごはんの時間がくれたもの
にぎやかな食卓も好きだけど、
私はひとりで食べるごはんの時間も、実はけっこう好きです。
誰にも気をつかわず、しゃべらなくていい。
好きなものを、好きなタイミングで、好きな順番で食べられる。
それだけで、なんだか自分を大切にできてる感じがする。
忙しくてバタバタした日も、
心がざわざわして落ち着かない夜も、
コンビニで買ったあったかいお味噌汁と、
たまごサンドを静かに食べるだけで、
少しだけ深呼吸ができる気がするんです。
「おいしい」と言葉にしなくても、
自分の中でしっかり感じていれば、それで十分。
🪞ひとりの時間って、実は“自分と話せる時間”
一人暮らしを始めたばかりの頃、
外食をするとなんだか心細くて、
わざとスマホをいじって“さみしくないふり”をしてました。
でもある日、勇気を出してスマホを置いて、
ただ目の前の料理を見て、味わってみたんです。
すると、びっくりするくらい
“味がちゃんと自分に届く感覚”があって。
「おいしい」って、
自分の“今”を味わうことなんだなって思いました。
ひとりごはんって、
誰にも見せなくていい、がんばらなくていい、
ただただ「自分のための時間」。
気を張らずに、無理をせずに、
“今日の自分”を受け入れるための、小さな儀式みたいなものかもしれません。
🍳自分で作って、自分で食べるだけで“えらい”
たとえば、疲れた帰り道に「よし、今日は外食にしよう!」って決めるのもひとつのごはん。
冷蔵庫の中でなんとかなる食材をかき集めて、
野菜炒めを作った夜も、ちゃんとしたごはん。
それがたとえ味が薄すぎても、濃すぎても、
「今の私にはこれがぴったりだった」って思えたら、それだけで十分◎
“ちゃんと食べる”って、
健康のためだけじゃなくて、
自分を大切に扱うための、心のメンテナンスなんだと思います。
ひとりごはんがくれたのは、
孤独じゃなくて自由。
さみしさじゃなくて心の余白。
何も特別なことはないけれど、
食べ終わったあとにふぅっと深呼吸できる、
そんな静かなごはん時間が、私は好きです。
👫誰かと食べるって、なんでこんなにうれしいんだろう
ひとりごはんの時間が、自分をととのえるやさしい時間なら、
誰かと一緒に食べるごはんは、あたたかくて、ちょっと特別な時間。
味だけじゃなくて、
会話や、笑い声や、沈黙でさえも含めて、
全部が“ごはんの一部”になる。
🍲「何食べる?」から始まる、小さなストーリー
「今日、何食べる?」って聞かれると、
なんだかそれだけでうれしくなりませんか?
たとえば、友達とふらっと入った中華料理屋さん。
「それ美味しそう!ちょっとちょうだい〜」なんて言い合いながら、
お互いのメニューを少しずつ分けて、共有する時間。
それはただの食事じゃなくて、
相手と気持ちを分け合う行為なんだと思います。
🍛おいしさって、ひとりより“ふたり”のほうが強くなる
同じカレーでも、ひとりで食べるより、
「おいしいね」って言いながら食べるほうが、なんだか味が深くなる気がします。
これはきっと、
“おいしい”がふたりのあいだで跳ね返って、広がっていくから。
会話の途中でふと訪れる無言の「もぐもぐタイム」さえ、心地よくて愛おしい。
そんなごはんの時間が、思い出としてちゃんと胸に残るんですよね。
🍴記憶に残っている“誰かとの食事”は、いつも少しあたたかい
失恋したとき、友達が黙って鍋を囲んでくれた夜。
家族みんなで囲んだ、年越しそばの静かな年末。
言葉にできなかった気持ちが、ごはんの湯気の中でほどけていった夜ごはん。
「大丈夫だよ」も
「おつかれさま」も
「ずっと一緒にいたいね」も
ごはんの時間の中に、たくさん詰まっていた。
🧡食卓は、日常のなかにある“しあわせの原点”
どんなに忙しくても、
心が疲れていても、
誰かと一緒に何かを食べると、ちゃんと人間に戻れる感じがする。
うれしい日も、そうじゃない日も、
「一緒に食べよう」と言える誰かがいることって、
すごく大きな安心なんだと思う。
だから、私は思います。
人生って、案外――
ごはんでできてるんじゃないかな。
食べることで自分を保ち、
ひとりの時間で自分を知り、
誰かと食べることで、人とつながっていく。
ごはんがつくる、わたしの人生のかけらたち🍊

朝に食べた目玉焼き、
夜中にひとりで食べたカップ麺、
家族で囲んだ鍋、恋人と分け合ったデザート、
ふと立ち寄った屋台の魯肉飯——
思い出すたび、味だけじゃなく、
そのときの空気や会話、感情までもが一緒によみがえる。
人生を語るには少し地味かもしれないけど、
振り返ると、いつもそばにあったのは「ごはん」でした。
嬉しい時も、落ち込んだ時も、誰かと笑いたい時も。
何を食べて、誰といて、どんな気持ちだったか——
それこそが、私の人生の記録のような気がします。
ごはんは、すごい。
ただの食事じゃなくて、
自分をととのえる手段であり、
人とつながるきっかけであり、
感情を抱きしめてくれる存在でもある。
だから、今日も「いただきます」と言って、
ちゃんと食べる。
それは、ちゃんと生きるということなのかもしれません。
🍴そして、もし今あなたがちょっとだけ元気がなくても、
大丈夫。
おいしいものは、ちゃんとあなたの心にも届いてくれます。
「人生って案外、ごはんでできてる」
この言葉が、ふっと胸のどこかに残ってくれたらうれしいです🌸